研究会誌第一号の発刊に際して


条件反射制御法学会 会長 平井愼二

科学は様々な領域において新しい発見と発想により、目覚ましい発展を続けています。この発展には、調査や実験の方法が発達し、客観的に把握できる対象が多くなったことが貢献しました。ヒトの神経活動に関しても、本人が症状を感じる反応性抑うつや不安障害などに対して、並びに動作として生じる物質使用障害や性嗜好障害などに対して、症状を改善するために、あるいは逸脱した行動を防ぐために種々の技法や制度が作られてきました。それらは一定の効果をあげてきましたが、効果が届かない神経活動があり、本人が悩む疾病性の強いものや他者をも害する犯罪性の強いものが解決するべき問題として残されています。標的の神経活動を完全に制御するところまで至っていない原因の一つは、ヒトの行動に関しては我々がその主体であるためか、ヒトにおいて行動を司る神経活動が選択され、実現されるメカニズムを明らかにする努力を十分にしないままに、漠然とした理解で対応策を作ってきたからでしょう。つまるところ、20世紀初頭にパヴロフがヒトの行動の原理に関して正しい理解を示したにも関わらず、その後、パヴロフによる理解が引き継がれなかったことがその原因なのです。

パヴロフはヒトの行動についてそれを制御する神経系を無意識的に定型的な行動を司る第一信号系と意識的に自由な行動を司る第二信号系に分けて、その原理を示しました。また、パヴロフは第一信号系において獲得する後天的な反射連鎖が徐々に遺伝し、先天的な反射連鎖になることが進化を支えると考えました。

私は2006年からパヴロフ学説に従って物質使用障害に対応し、早くに欲求の完全消去に成功しました。その後、条件反射制御法は病的賭博、過食症、窃盗症、性嗜好障害、自傷行為、強迫行為、PTSD、パニック障害、反応性抑うつなどの種々の疾病に用いられて、高い効果を現すことが確認されつつあります。

これらの病態、つまり、ある神経活動が生じることを理性的な判断は望んでいないのにそれが生じる病態は、第二信号系の制御を越えて第一信号系が作動する状態であると理解すべきです。しかし、既存の多くの治療的な技法は、ヒトの神経活動を様々に理解し、その機能を種々の名称を用いて表し、あるいは用いる名称が示す機能があると想定して構成されています。それらの多くは、いずれ、パヴロフが提唱した第一信号系と第二信号系の言葉を用いて整理され、ヒトの行動に関する研究は進むであろうと考えます。

この会誌を発行するのは条件反射制御法研究会であり、最大の目的は目の前に現れた個人の行動をより良好なものにするために、過度に作動する後天的反射連鎖に対する抑制、ならびに望む反射連鎖の設定を効果的にかつ安全に行う技法の研究です。これをヒトの行動原理を示すパヴロフ学説に従って行います。また、対象が目の前にいない社会内の大きな集団であっても標的はヒトの行動であることから、社会の平安を守ることを目的にした制度はやはりパヴロフ学説に従って構成されるべきであり、この領域も条件反射制御法が研究する対象です。社会制度において重要な役割をもつ刑法は、ヒトは正常ならば理性的な判断に従って行動できる能力を必ずもつことを前提にして作られていますが、この前提に関して再検討が必要なのです。現実には、正常な精神状態において理性的判断を行い、しかし、その判断に従って行動する能力のない特定の群が存在するのです。

例を挙げると、わが国の刑務所人口の多くを占める覚醒剤自己使用の累犯者がそのような群の一つです。彼らは過去に覚醒剤の摂取を反復し、多くの場合、最終の覚醒剤摂取を根拠に検挙され、刑罰を受けています。しかし、その検挙の対象となった触法行為は、過去の覚醒剤摂取反復により第一信号系に成立した後天的反射連鎖が、現在の第二信号系の理性的判断より強く作動して生じたものです。刑罰は、それを予想して避ける計画をする第二信号系に働きかけるものです。従って、刑罰では覚醒剤摂取行動を司る後天的反射連鎖が活動的なままに放置されます。このように、現在の司法的処遇は覚醒剤摂取反復者に対して効果が強く限られます。

ここまで示したように条件反射制御法が基づくパヴロフ学説は、現在の他の治療技法や制度と激しく摩擦するものです。進化に関しては、獲得形質は遺伝しないという学説が最も広く受け入れられており、パヴロフの考えは異端です。

パヴロフは実験を反復し、動物の行動と進化について正しい理論体系を打ち立てましたが、後に彼の理論は誤って理解され、現在、広く受け入れられている学習理論においては狭小な枠にパヴロフ学説は閉じ込められています。パヴロフ学説を正確に理解し、評価し直し、それを教育や治療技法、社会制度に用いるよう急がなければなりません。しかしながら、このことはパヴロフが生きていた時にもなされませんでした。これはおそらくパヴロフが主に行ったのは動物実験と思索であり、望まない神経活動が生じさせる精神症状や犯罪行為に関して、成人のヒトを対象にした治療行為は蓄積が少なかったのでしょう。

私は幸運にも忍耐強いスタッフに恵まれ、覚醒剤乱用を反復したヒトに対して条件反射制御法を始めることができました。また、他の施設においても患者を救う気持ちにあふれる同志がこの技法を実行し、条件反射制御法研究会に集まってきました。私たちは条件反射制御法がこれまでの治療技法と比較し、飛躍的に強力な効果を持つことをすでに確信しています。この研究会誌等で臨床での結果を報告してゆくことで、条件反射制御法の効果とパヴロフ学説の正当性を明らかにし、治療技法の向上と制度の改革に尽くしてゆくのです。